東海林のり子さんといえば、事件リポーターのイメージが強いですが、ヴィジュアル系(V系)バンドとの深い関わりがあることをご存じでしょうか?
X JAPANやLUNA SEAなど、数々のV系バンドを熱く取材し、「V系の母」とも称される存在です。
その姿を見て「どうしてV系と関わるようになったの?」「もともと音楽が好きだったの?」と気になる方も多いのではないでしょうか。
元々は報道記者として活躍し、その後芸能リポーターとして名を馳せた東海林さん。
どのような学生時代を過ごし、どんな家庭環境で育ったのかも気になるところです。
高校や大学はどこなのか、実家のこと、両親や兄弟との関係など、今まであまり知られていない情報を知りたい方もいるでしょう。
そこで本記事では、東海林のり子さんの若い頃のエピソード、高校・大学の学歴、実家や家族構成について詳しく調査しました。
V系との関わりのルーツを探るとともに、その魅力に迫ります!
東海林のり子といえばV系好きのロッキンママ
東海林のり子さんは、V系(ヴィジュアル系バンド)のファンであることを公言しています。
バンドのライブには毎年足を運んでおり、アーティストだけではなくファンからも支持されたことで「ロッキンママ」というあだ名が付きました。
東海林のり子さんはファンとの交流も積極的に行っているため、「お母さんがライブに行くことを許してくれません」などの人生相談の手紙も届くこともあるそうです。
東海林のり子とhideの関係
東海林のり子さんとhideちゃんの2ショット癒される〜 pic.twitter.com/HSKIj57epY
— yumi (@yumi1213hide) June 7, 2023
東海林のり子さんは、hideさんと親しい関係でした。
hideさんはX JAPANのギタリストで、1998年に亡くなっています。
東海林のり子さんはhideさんについて「とにかく優しい人」と明かしています。
LUNASEAやラルクなどのV系バンドとも仲良し
友達ミカコと行った
— 東海林のり子 (@shoujinoriko) January 18, 2025
ラルクのlive!
3時間位の激しいライブ後疲れも見せない
優しい
TET SUYAさん🌹 pic.twitter.com/s50cyAxnwL
東海林のり子さんのV系好きは、「○○のみ」という固定ではありません。
そのため多くのアーティストと交流があります。
東海林のり子さんのSNSにはアーティストとのツーショット写真なども多く投稿されています。
東海林のり子はなぜヴィジュアル系好きになった?
東海林のり子さんがV系好きになったのは、50歳を過ぎた頃でした。
元々ロックが好きだった東海林のり子さんですが、ある時X JAPANのTOSHIさんのラジオの出演をオファーがあり、「え?Xって何?よく分からないけど、行ってみるわ」と出演しました。
するとメンバーの礼儀正しさにすっかり意気投合、そこからX JAPANのみならず他のバンドのライブにも足を運ぶようになったそうです。
最初はヘドバンも出来なかった東海林のり子さんでしたが、今ではヘドバンしながらノリノリでライブを楽しんでいるようです。
東海林のり子の若い頃
【画像】東海林のり子の若い頃は?デビューから現在までの経歴を時系列まとめ!https://t.co/F1EPDLuerA pic.twitter.com/MuFzm28GFV
— こいもうさぎ (@koimousagi) November 2, 2024
東海林のり子さんは、元アナウンサーです。
大学卒業後はニッポン放送に入社し、アナウンサーとして活動していました。
1970年に退社するとフリーアナウンサー、芸能レポーターとして活動の幅を広げています。
東海林のり子のプロフィールや経歴
今日は銀座の東急プラザの「江戸切子桜祭り」に来ました❗️ pic.twitter.com/zULdcMNUB3
— 東海林のり子 (@shoujinoriko) March 24, 2023
名前:東海林のり子
生年月日:1934年5月26日
出身地:埼玉県
血液型:A型
身長:非公開
1957年にニッポン放送に入社し1970年に退社した東海林のり子さんは、その後『小川宏ショー』、『3時のあなた』、『おはよう!ナイスデイなど多くのワイドショーに出演、事件リポーターとしても活躍しました。
「現場の東海林です」、「現場の東海林がお伝えしました」がお馴染みのフレーズになり、1994年度の日本女性放送者懇談会賞(現・放送ウーマン賞)を受賞しました。
1995年に発生した阪神・淡路大震災を期にリポーターとしての活動に終止符を打つことを決意し以降は司会業やコメンテーターの活動に主軸を移したものの、『脳内エステ IQサプリ』の問題中に登場したりなど不定期ながらリポーターとして出演しています。
東海林のり子の所属事務所
東海林のり子さんは、コトキカクにじょそくしています。
こちらの事務所には、 富田隆さん、岡野あつこさんなども在籍しています。
東海林のり子の年収
東海林のり子さんの年収は公表されていません。
現在も活動を続けているので、数百万円ほどになるのではないかと思われます。
東海林のり子の学歴
東海林のり子さんが通っていた学校について調べてみました。
東海林のり子の出身小学校
東海林のり子さんは、埼玉県師範学校附属小学校(現・埼玉大学教育学部附属小学校)出身です。
小学生の頃は戦争中でしたが、東海林のり子さんは家族が多かったこともあり疎開はしなかったそうです。
東海林のり子の出身中学
小学校卒業後は、埼玉師範付属中学校(現・埼玉大学教育学部附属中学校)に進学しました。
中学時代はバレーボール部に所属しました。
水泳で当時の50メートル自由型で埼玉県記録を更新したそうです。
東海林のり子の出身高校
中学校卒業後は、埼玉県立浦和第一女子高等学校に進学しました。
現在の偏差値は72です。
1年生のときはボート部、その後は長唄クラブに入りました。
東海林のり子の出身大学
高校卒業後は、立教大学に進学しました。
東海林のり子さんは文学部英文学科に在籍、現在の偏差値は57.5~69です。
大学時代はESS(英語研究会)に所属しました。
サークルの一年後輩には野際陽子さんがおり、「ノッコ」「ノギ」と呼び合うほど親しかったそうです。
東海林のり子の実家
東海林のり子さんのご実家は、埼玉県浦和市(現在のさいたま市浦和地区)にあり、商店街で質屋を営んでいらっしゃいました。
お祖父様は元々お侍で、明治の廃藩置県を機に商売を始められたそうです。
4人姉妹の末っ子として育ち、当時は各姉妹に「ねえや」と呼ばれるお手伝いさんがついていたとのこと。
幼少期には、浴衣を着て日傘を持ちながら商店街を踊り歩き、周囲の人々から「上手だね」と声をかけられることもあったそうです。
戦時中は庭に防空壕を掘り、B29が飛来するたびに避難する日々を過ごされました。
終戦後の食糧難の時期には、お昼ご飯がサツマイモだけということもありましたが、お母様はそれを「スイートポテトよ」と明るく表現し、家族を励まされていたそうです。
このような家庭環境で育った東海林さんの明るさや前向きな姿勢は、ご家族の影響が大きいのかもしれませんね。
東海林のり子の生い立ち
東海林のり子さんは、1934年5月26日に誕生しました。
子供の頃は歌が好きで、家族や近所の人たちにかわいがって育ててもらったそうです。
大学時代は国際線の客室乗務員を志望していたものの、容姿端麗が条件で身長制限もあることから「これは駄目だ」と諦め、ニッポン放送が開局3年目で新人アナウンサーを募集していたことから応募しました。
応募者は2000人で無理だと思っていたものの、8人の採用の中に見事入ることが出来ました。
東海林のり子の父親
東海林のり子さんのお父さんは一般人です。
名前や顔写真は公開されていません。
お父さんは家業を継いだもののお坊ちゃん育ちだったため、商売はあまりうまくなかったそうです。
東海林のり子の母親
東海林のり子さんのお母さんは、千代さんと言います。
一般人で顔写真は公開されていません。
お母さんは戦後食糧難の時でもサツマイモを「今日のお昼はスイートポテトよ」と、明るく言う人だったそうです。
東海林のり子の兄弟や姉妹
東海林のり子さんには、3人のお姉さんがいます。
お姉さんたちは一般人です。
裕福な家庭で育った4姉妹には、1人ずつ「ねえや」がついて面倒をみてくれていました。
まとめ
アナウンサーとして業界に入った東海林のり子さんは、「人生YESの法則」でこれまで活躍し続けてきたそうです。
これからも仕事・プライベートどちらも充実した日々を送ってほしいと思います。

