バッドボーイズ清人の実家や生い立ちが壮絶!父親と母親兄弟について

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お笑いコンビ「バッドボーイズ」の大溝清人さんは、その明るくユーモア溢れるキャラクターからは想像できないほど、壮絶な生い立ちを経験してきました。

福岡県出身の彼の実家は決して裕福ではなく、幼少期は苦労の連続だったといいます。

特に家族との関係や家庭環境は、彼の人生に大きな影響を与えてきました。

大溝さんの父親と母親はどのような人物だったのか、また兄弟との関係はどのようなものだったのか。

彼の家族は、彼の人生にどんな影響を及ぼしたのでしょうか。

お笑い芸人として成功を収めるまでの道のりは、決して平坦ではなかったはずです。

どのような環境の中で育ち、どのようにして現在の清人さんが形成されていったのか、詳しく見ていきましょう。

本記事では、大溝さんの幼少期から現在に至るまでの生い立ちや実家のエピソードを掘り下げ、家族構成や彼を支えた存在についてもご紹介します。

彼が歩んできた苦難の道のりを知ることで、彼の人間性や芸風への理解がより深まるはずです。

それでは、バッドボーイズ大溝さんの壮絶な半生に迫っていきましょう。

目次

バッドボーイズ大溝清人の実家はボロボロだった

お笑いコンビ「バッドボーイズ」の大溝清人さんが育った実家は、福岡県福岡市の海沿いの町にあります。

この地域は海風が強く、塩害による家屋の劣化が進みやすい環境ですが、清人さんの実家もその影響を大きく受けていました。

元々アメリカンハウスとして建てられたため、日本の一般的な住宅とは構造が異なり、特徴的なつくりになっていました。

特に玄関は独特で、日本の家屋にあるような「玄関」という概念がほとんどありませんでした。

玄関扉はあるものの内開きの構造になっており、劣化の影響で途中までしか開かなくなっていました。

そのため家に出入りするのも一苦労で、家族は常に不便な状況を強いられていました。

また玄関スペースがないため靴を脱ぐ場所もなく、外に置きっぱなしにせざるを得なかったといいます。

実家のリビングの窓は老朽化が進んだことで枠が腐り、大きな隙間が空いてしまっていました。

そのため冬場になると冷たい風が吹き込み、室内の温度が大きく下がってしまいます。

家族はその隙間を新聞紙で埋めることで寒さ対策をしていましたが、完全に防ぐことはできず、指が入るほどの隙間が開いたままだったといいます。

特に雪が降る日にはその隙間から雪が入り込んでしまうこともあり、室内で雪が舞うという信じられないような状況が日常的に発生していました。

台所の状況も決して良いとは言えませんでした。

家族はほとんど台所を使用せず、食事の準備も別の場所で行うことが多かったため長年放置され、散らかった状態が続いていました。

使用頻度が少ないことで掃除や手入れが行き届かず、ますます荒れていくという悪循環に陥っていたのです。

さらに浴室の状況はもっと深刻でした。

床のタイルが割れてしまい地面がむき出しになっていたため、入浴時には足元に注意しながら使わなければなりませんでした。

また雨漏りの影響で天井には大きな穴が開いてしまい、そこから水が滴り落ちることもあったといいます。

浴室の中にはトイレも併設されていましたが、シャワーに近い位置にあったため、使用時には水がかかってしまうという不便な構造になっていました。

このように大溝清人さんの実家は一般的な住宅とは大きく異なり、住環境としては非常に厳しいものでした。

しかし、そんな環境の中でもたくましく生き抜き、後に芸人として成功を収めた清人さん。

その半生を知ることで、彼の強さや独特の感性がどのように培われたのかが見えてきます。

清人が実家をリフォームした

2015年に放送された『大改造!!劇的ビフォーアフター』にて、お笑いコンビ「バッドボーイズ」の大溝清人さんの実家がリフォームされました。

もともと彼の実家は老朽化が激しく、窓枠が腐って隙間ができていたり、浴室の天井に大きな穴が開いていたりと、とても住みやすい環境とは言えない状態でした。

こうした事情から清人さんは家族を実家に呼ぶことができず、「子供を連れて遊びに行ったり泊まることもできないし、父も気を遣って外で会おうとする」と語っていました。

さらに彼自身も過去に家族に迷惑をかけたことがあり、今回のリフォームを通じて少しでも親孝行したいという思いが強かったようです。

しかしながらリフォームの予算は決して十分とは言えず、超ローコスト予算として設定された金額は約50万円。

一般的な住宅リフォームでは最低限の修繕を行うだけでも相当な費用がかかるため、この金額で大掛かりな改修を行うのは極めて難しい挑戦でした。

通常50万円という予算では本格的なリフォームは難しく、プロの職人を雇っての作業は到底できません。

そこで清人さん自身が積極的に作業に参加することとなり、相方の佐田正樹さん、そして清人さんの元暴走族仲間たちが集結し、DIYリフォームに挑戦しました。

プロの施工に頼らず、できる限り既製品を使わずに安価な材料を活用し、専門的な技術が不要な作業を中心に進めることで、限られた予算内でのリフォームを目指しました。

このプロジェクトはテレビ番組での企画ということもあり、多くの協力者が集まりました。

そのおかげで、通常であれば発生する労務費は一切不要となり、資材も友情の力による提供を受けることで可能な限りコストを抑えることができました。

これらの協力があったからこそ、実家のリフォームは現実的なものとなり、清人さんの親孝行の願いが実現することとなったのです。

こうして行われたリフォームにより、清人さんの実家は住みやすく生まれ変わりました。

家族が安心して訪れることができる環境が整い、父親とも気兼ねなく家で会うことができるようになったのです。

自ら手を動かし仲間と協力しながら築き上げたこのリフォームは、単なる家の修繕ではなく、清人さんの家族への感謝の気持ちと親孝行の想いが詰まったものとなりました。

バッドボーイズ大溝清人の生い立ちが壮絶

大溝清人さんは、1978年9月3日に生まれました。

彼が幼少期を過ごした家庭は、決して裕福とは言えませんでした。

おばあちゃんとその3人の息子たち、そして小さな清人さんとの共同生活が繰り広げられていました。

主に清人さんとおばあちゃんの生活が中心で、彼にとっては非常に過酷な日々だったと言います。

「きれいごとだけではなく、本当に地獄のような思いも日々感じていた」という清人さんの言葉からは、その当時の過酷な生活が伝わってきます。

家計は非常に厳しく、時には食事を摂ることすら困難な状況もありました。

そんな中で、一家の大黒柱として、また親代わりとして支えていたのはおばあちゃんでした。

しかしおばあちゃんは「目が見えない」というハンディキャップを背負っており、清人さんはそのおばあちゃんを支えるために足となり目となり、日々忙しい生活を送っていたのです。

友達と遊ぶ時間もほとんどなく、清人さんの生活は非常に厳しいものでした。

清人さんは、青春時代に暴走族の一員として過ごしていました。

彼は仲間たちと共に改造バイクで走り回り、ヤンキーとしての生活を送っていました。

しかし彼は決して悪行に染まることなく、他のヤンキーたちとは一線を画していました。

ある時、彼は暴走族の集会に出席する際に「ゴミ出しがあるから抜ける」と言い、改造バイクで家のゴミ出しに行くというエピソードを語っています。

周囲の仲間たちも、いつも「ゴミ出しの日じゃないか?」と声をかけてくれたそうです。

清人さんは、ヤンキーたちが「盗んだ部品でバイクを改造するのが当たり前」としている中で、窃盗を嫌い、自分でお金を貯めてバイトをして購入したパーツでバイクを改造していました。

このように彼は社会のルールを遵守し「免許も取って」「赤信号で停まって」など、品行方正な行動を心掛けていたのです。

周囲の仲間たちは、清人さんを「奇跡のヤンキー」と呼んでいました。

清人さんは、ヤンキー時代を過ごす中で次第にその生き方に疑問を持つようになりました。

彼がヤンキーを続けることで得られる未来には不幸しかないことに気づいたのです。

ヤンキーの世界では喧嘩でのし上がり、闇社会で戦うことが求められますが、それが本当に幸せな未来を作るとは思えませんでした。

そこで清人さんは「おばあちゃんの笑顔が大事だな」と気づき、不良の道をきっぱりと断ち切る決断をします。

「不良って、喧嘩でのし上がっていく。それって未来に不幸せしかないと思う」と熱く語った清人さんは、シンプルに「笑わせる」というお笑い芸人の道を選びました。

おばあちゃんの笑顔を守りたいという強い思いが、彼をお笑いの世界へと導いたのです。

このように清人さんは厳しい家庭環境とヤンキー時代を経て、最終的にはお笑い芸人としての道を選び、人生を切り開いていくこととなりました。

バッドボーイズ大溝清人の父親

大溝清人さんのお父さんは一般の方です。

過去には、心臓が45分間停止してしまったという衝撃的な経験をしています。

医師たちはその状況を前に「もし助かったとしても植物人間になるだろう」と告げていたといいます。

家族にとっては絶望的な状況でしたが、清人さんはその時の心境を回想し、「電気ショックを受けるところも見た時、もうやめてほしいと思った」と語っています。

大切な父親が命をかけた治療を受ける姿を見て、彼はどれほどの辛さを感じていたのでしょうか。

しかしその後、奇跡的な回復が訪れました。

清人さんが父親の横にいた時に父親は目を覚まし、その後は驚くほど元気を取り戻しました。

「病院中がびっくりしています。奇跡らしいんですよ」と、清人さんはその当時の驚きと喜びを明かしました。

長い間意識が戻らなかった父親が突然目を覚まし、元気に話す姿を見て、家族全員がどれほど安心したことでしょう。

現在、大溝清人さんのお父さんは老人ホームに入居していますが、その元気さは相変わらずで、清人さんを驚かせるエピソードも続いています。

ある時、警備員から「清人さん、(お父さんが)夜、俳諧禁止のところで柵を飛び越えてうろちょろしていた」と聞かされた清人さんは、驚きながらも嬉しそうに語りました。

「元気なんすよ」と笑いながら話す清人さんの顔には、父親が元気を取り戻したことへの喜びが溢れていました。

目が見えないおばあちゃんがいた

大溝清人さんのおばあちゃんは、哲子さんといいます。

清人さんは、3歳から18歳までの長い間、おばあちゃんとほぼ二人三脚で過ごしていました。

特に哲子さんは目の不自由な状態で過ごしていたため、清人さんはヤングケアラーとして、おばあちゃんを支える役割を果たしていたのです。

哲子さんはもともと目が見えていたのですが、40代を過ぎたあたりから視力が徐々に落ちていき、やがて日常生活が不自由になりました。

視力が低下することで哲子さんは一人での生活が困難になり、日々の生活全般において支援が必要となりました。

そのため清人さんは自然とその役割を担うことになり、家事や買い物などを手伝うことが日課となっていったのです。

「目の不自由なおばあちゃんとほぼ2人で暮らしていた」という清人さんの言葉からは、彼が幼いころからどれだけ多くの時間をおばあちゃんと共に過ごし、どれだけ強い絆を築いていたかが伺えます。

目が見えないおばあちゃんの生活を支えるため、清人さんは自分の生活の中でさまざまな制約を受け入れながらも、決して無理をせずおばあちゃんのために尽力してきました。

おばあちゃんにとって清人さんの存在はまさに支えであり、彼がいなければ日常生活さえ困難だったことでしょう。

清人さんは買い物に同行したり、お手伝いをしたりする日々の中で、おばあちゃんとたくさんの思い出を作りました。

視力の低下による不便さや苦しさを抱えながらも、哲子さんは清人さんにとっての力強い存在でした。

彼が成長していく中で、おばあちゃんから学んだことも多かったことでしょう。

おばあちゃんの支えがあったからこそ、今の清人さんがあると感じている部分も少なくないはずです。

残念ながら、哲子さんは2014年に亡くなってしまいました。

その喪失感は計り知れませんが、清人さんにとっておばあちゃんとの時間は今でも心の中で生き続けていることでしょう。

おばあちゃんに対する感謝の気持ちや共に過ごした日々の思い出は、彼の心の中でずっと大切にされているのです。

おばあちゃんと過ごした時間が、清人さんにとってはどれほど大切で貴重なものであったか、そしてその経験がどれほど彼の成長に影響を与えたかは言うまでもありません。

おばあちゃんの哲子さんは清人さんの人生にとって欠かせない存在であり、彼の心の中で永遠に生き続けるのでしょう。

バッドボーイズ大溝清人の母親

大溝清人さんの人生には非常に深い影響を与えた出来事があります。

それは、お母さんの存在です。

大溝さんが物心ついた頃には、すでにお母さんは彼の前から姿を消していました。

最初、大溝さんは「お母さんが亡くなった」と聞かされていました。

この言葉を信じていた大溝さんにとって、お母さんの死は受け入れざるを得ない現実でした。

しかし後になって彼は驚くべき事実を知ります。

お母さんは亡くなったのではなく、彼が8カ月くらいの頃に家を出て行き、蒸発してしまったのだと。

それまで信じていた「亡くなった」という言葉が、実は真実ではなかったということを知った時、大溝さんの心は大きな混乱と衝撃を受けたことでしょう。

お母さんが蒸発してしまったという事実は大溝さんにとって非常に大きな心の傷となり、その後の人生に深い影響を与えることになります。

お母さんがどこで何をしているのか、また、今どうしているのかについて、彼には一切の情報がありません。

そのためお母さんが今どうしているのかを知ることはできません。

これが彼の心の中で長年続く疑問となり、時折彼を悩ませてきたことでしょう。

大溝さんは、その後の人生においてさまざまな困難に立ち向かうことになりますが、その根本にお母さんの不在という問題が常に存在していたに違いありません。

お母さんがいないことで家族の絆や愛情を求めて過ごしてきたことでしょう。

親の愛情が欠けているという事実は、彼が大人になる過程においても心の中で常に感じていた部分だと思われます。

お母さんとの関係がどのようなものであったかは分かりませんが、その不在が彼の人生にどれほどの影響を与えたかは計り知れません。

お母さんが去ったことによって大溝さんは他の家族、特におばあちゃんとの絆を深め、家族の愛情や支えの大切さを身をもって学んできたのでしょう。

しかしお母さんの蒸発という事実は、心の中で彼にとって解けない謎として残り続けたことでしょう。

現在でもお母さんがどこで何をしているのか、どうして蒸発したのかは分からないままです。

この事実がどれほど彼を悩ませ、人生における深い問いとなっているのか、想像するのは容易ではありません。

それでも彼はその痛みを乗り越えて、今の自分を作り上げてきたのだと思います。

バッドボーイズ大溝清人の兄弟や姉妹

大溝清人さんは、一人っ子として育ちました。

彼の家庭環境は一般的なものとは少し異なり、幼少期からその特異な状況が彼の人生に大きな影響を与えました。

特に、お母さんが大溝さんが8カ月の頃に家を出てしまったことは彼の心に深い傷を残しました。

お母さんの不在とその後の家族構成の変化が彼の人生にどれほどの影響を与えたかは計り知れません。

一人っ子として過ごすということは兄弟姉妹がいないことで、他の家庭に見られるような兄弟間の争いや支え合いがないという意味でもあります。

大溝さんは幼少期にお母さんと過ごす時間が限られていたため、家族とのつながりを求める気持ちが強かったことでしょう。

おばあちゃんと過ごした時間が、彼にとっては何よりの支えとなったのかもしれません。

しかし彼が物心ついた頃にはお母さんはすでに蒸発しており、その後のお母さんの人生がどうなったのかは、いまだにわかっていません。

お母さんが蒸発してから再婚をしている可能性もあり、その場合腹違いのきょうだいがいる可能性もゼロではありません。

大溝さんはもしお母さんが再婚し新しい家庭を築いていたとしたら、自分に兄弟姉妹がいたのかもしれないという考えを持っていたことでしょう。

実際にお母さんの行方については全く情報がなく、どこで何をしているのか、再婚しているのか、それとも別の家族を作っているのか、ということも一切わかっていません。

この不確かな状況が大溝さんにとっては心の中でずっと解決できない問いのままであり、もしかしたら腹違いのきょうだいがいるかもしれないという思いが彼の心に残っている可能性もあります。

一人っ子として育った大溝さんは兄弟姉妹がいないことで、家族の絆や愛情を他の形で求めるようになったのかもしれません。

また親の不在や家族の構成に対する疑問が彼の人生の中で時折心の中で強く浮かび上がってきたことでしょう。

それでも彼はその不安や疑問を抱えながらも、自分なりに前に進んできたのです。

お母さんが再婚して腹違いのきょうだいがいる可能性を考えると、彼はその後の人生で、もし兄弟姉妹がいたらどんな関係を築いたのだろうか、という思いを抱えてきたことでしょう。

その考えが彼にとって家族とはどうあるべきか、兄弟姉妹という存在とは何かを再考させるきっかけになった可能性もあります。

今後お母さんの消息が明らかになり、もし腹違いのきょうだいがいた場合、大溝さんがどのようにその関係を受け入れ、向き合っていくのかが注目されるところです。

まとめ

大溝清人さんは、おばあちゃん、叔父さん、お父さんと生活していました。

3歳から18歳までは主におばあちゃんとの生活だったそうです。

お母さんは生後8か月の時に蒸発してしまい、大溝清人さんの記憶には一緒に過ごした日々が残されていません。

きょうだいはおらず、ひとりっ子です。

壮絶な人生を歩んできた大溝清人さんが今後幸せな日々を過ごしていけるよう、見守っていきたいと思います。

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