日本の演劇界やテレビドラマで長年にわたり存在感を放ち続けてきた女優・樫山文枝さん。
その演技力や品のあるたたずまいから、“知的で育ちの良い女優”という印象を持つ人も多いのではないでしょうか。
実はその印象は見た目や演技だけではなく、育った家庭環境や家族の経歴にも裏付けられているようです。
父親は大学教授として教育の世界に貢献し、さらに親戚には日本を代表するアパレルブランド「オンワード樫山」の創業者もいるという、まさに文化と実業の両方に縁の深い家系に育ってきたことがわかっています。
では、母親や兄弟姉妹はどのような人物だったのでしょうか? また、どのような家庭環境の中で、樫山文枝さんは人として、そして女優として成長していったのでしょうか。
今回は、あまり語られることのなかった樫山文枝さんの実家の背景やご家族に関するエピソードを丁寧に掘り下げながら、その人柄のルーツに迫っていきます。
知れば知るほど惹かれる、深みある人物像を一緒に紐解いていきましょう。
樫山文枝の父親は大学教授
樫山文枝さんの父親は、大学教授の樫山欽四郎さんです。
哲学研究の分野で知られ、学術界・教育界で長く貢献してきた人物として知られています。
樫山欽四郎さんは、早稲田大学文学部哲学科を卒業後、同大学で助教授を経て、1949年には教授に昇進しました。
その後も教育界で着実にキャリアを重ね、早稲田大学高等学院長、第二文学部長、第一文学部長、大学院文学研究委員長などの要職を歴任。
学内外から高く信頼される教育者であり、同時に哲学者としての深い見識を持っていた人物です。
学術面では、特にヘーゲル哲学の研究で知られています。1951年には「ヤスパース協会」の設立に関わり、1957年には「実存主義協会」の設立にも参画。
いずれも理事として活動し、哲学思想の普及と研究に尽力しました。
1960年には『ヘーゲル精神現象学の研究』により文学博士号を取得しており、その功績は国内外で評価されています。
さらに教育界にとどまらず、スポーツ・社会活動にも積極的に関わっており、1969年には早稲田大学野球部長に就任。
そこから東京六大学野球連盟理事、日本学生野球協会理事として学生スポーツの発展にも尽くしました。
そのほかにも、
- 樫山奨学財団理事(兄が創設)
- 日米大学野球世界選手権大会組織委員
- 明治神宮外苑運営委員
- 日本学術会議哲学研究連絡委員会委員
といった多数の要職を務め、知性・教育・文化・スポーツの橋渡し的存在として、多岐にわたる分野で活躍していました。
一方で、娘である樫山文枝さんが女優を志した際には、当初強く反対していたと言われています。
学者としての立場から、当時の芸能界に対して懐疑的な思いがあったのかもしれません。
しかし、本人から「ただの芸能活動ではなく、新劇の世界で文化的な価値を築いていきたい」という熱意を聞いたことで、最終的にはその決意を受け入れ、応援するようになったとされています。
文化と学術の伝統ある家庭に育ち、その中で自身の信念を貫いた樫山文枝さんの歩みは、父・欽四郎さんの知性と厳しさ、そして理解力ある姿勢によって支えられていたのかもしれません。
樫山文枝の伯父はオンワード創業者
【昔のニホンをさがして】皆様こんばんは。今夜も古い話にお付き合いください。
— 競馬ニホン歳時記 前夜通信社公式 (@nihon_calendar) January 30, 2021
昭和33年第2回阪神特集号 競馬ニホン週報は4月29日、天皇賞(春)を勝ったオンワードゼアの口取りとゴール写真が表紙。右から馬主(樫山純三氏)、野平好男騎手、二本柳俊夫調教師と担当の厩務員さんでしょうか。 pic.twitter.com/IRrEmlF6kr
樫山文枝さんの伯父にあたるのは、実業家として名を馳せた樫山純三さんです。
父・樫山欽四郎さんの実兄であり、実業界と深く関わっていた人物として知られています。
樫山純三さんは大阪貿易学校を卒業後、若くして実業の世界へと進み、大阪にて樫山商店を設立しました。
この商店こそが、のちに日本を代表するアパレル企業「オンワード樫山」へと発展する基盤となります。
1947年9月には、樫山商店を法人化して樫山株式会社を設立。
この会社が、後のオンワード樫山の母体となり、国内アパレル業界に革新をもたらす存在へと成長していきました。
一方で、樫山純三さんはアパレル事業だけにとどまらず、競走馬の馬主としても活動していたという多彩な一面もあります。
自ら「オンワード牧場」を創設し、オーナーブリーダーとして数々の優れた競走馬を世に送り出しました。
中央競馬ファンの間でもその名は知られており、スポーツ文化の発展にも貢献した人物といえるでしょう。
このように、文化・教育の世界で活躍した父・欽四郎さんと、実業とスポーツの世界で成果を上げた伯父・純三さんという両輪に囲まれた家庭環境は、樫山文枝さんにとって大きな影響を与えていたと考えられます。
知性と品格を感じさせる演技の背景には、こうした家族から受け継がれた精神や価値観が深く息づいているのかもしれません。
樫山文枝の実家
樫山文枝さんの出身地は、東京府北多摩郡武蔵野町吉祥寺(現在の東京都武蔵野市吉祥寺)です。
現在ではおしゃれなカフェやセレクトショップが立ち並び、住みたい街ランキングでも常に上位に名を連ねる吉祥寺ですが、幼少期を過ごした当時はまったく異なる風景が広がっていました。
戦前から戦後にかけての吉祥寺周辺は、現在のような都市的な賑わいはなく、一面に田畑が広がり、雑木林が点在する自然豊かな地域だったそうです。
樫山文枝さんの生家も、そうした林に囲まれた静かな場所に建っていたと言われています。
都市開発が進む以前の吉祥寺は、まさに“日本の原風景”そのもの。
四季折々の風を感じながら、のびのびとした環境の中で育ったことが想像されます。
実家の正確な住所や家屋の構造などの詳細は公表されていませんが、父・樫山欽四郎さんは早稲田大学の教授、伯父はオンワード樫山の創業者という知的かつ文化的な家庭であることから、落ち着いた住宅街の一角にある品のある佇まいの住まいだった可能性が高いと考えられます。
当時の吉祥寺には、まだ商業施設もほとんどなく、生活の中心は地域の人々との助け合いと、自然との共生の中にありました。
そうした環境で培われた素直さや謙虚さは、後に俳優としての活動を通じて表れる穏やかで控えめな人柄にもつながっているのではないでしょうか。
近年のインタビューなどでも、吉祥寺で過ごした幼少期の思い出に触れる場面があり、自然とともに育った時間がいかにかけがえのないものだったかが伝わってきます。
静かで落ち着いた地域の中で、家族と共に丁寧に過ごした日々が、樫山文枝さんの内面の豊かさを育んだ一因であることは間違いありません。
樫山文枝の生い立ち
私の好きな女優-69
— 石室冬4 (@fuyuisimuro) February 1, 2022
樫山文枝。
愛嬌ある顔してます。劇団民芸のアンネ女優ですね。調べたら初代は以前取り上げた吉行和子。
一昨年亡くなった綿引勝彦とは仲のよいご夫婦でしたね。樫山は、綿引より四つ年上の姉さん女房。やっぱり「おはなはん」は忘れられません。#樫山文枝 #おはなはん pic.twitter.com/zaD7aDMF3r
樫山文枝さんは、1941年8月13日に誕生しました。
子供の頃は木登りをしたり冒険ごっこをしたりお転婆な部分がある一方で、お母さんが家の周囲に植えていたユキヤナギの花を積んで冠を作り、お姫様ごっこをして遊ぶような女の子らしい一面もあったそうです。
そんな樫山文枝さんは幼い頃からお母さんが枕元で毎晩物語を読んでくれたことで自然と物語が好きになり、またお母さんが演劇などを見せてくれたことで演技の世界が身近にありました。
中学3年生の時に演劇部の先生が戯曲『夕鶴』の主人公”つう“に樫山文枝さんを抜擢、このことがきっかけで本格的に女優を目指すようになりました。
ただ具体的な行動を起こしたのは20代になってからで、1963年に劇団民藝の俳優教室に入り、翌年の『アンネの日記』でアンネ・フランク役が初舞台でした。
樫山文枝の母親
樫山文枝さんの母親は、芸能活動とは無縁の一般の方です。
そのため、名前や顔写真などの詳細なプロフィールは公表されていませんが、家族としての温かさや思いやりに満ちた存在であったことが、いくつかのエピソードからうかがえます。
両親ともに長野県小諸市の出身で、母方の実家は比較的裕福な家庭だったと伝えられています。
自然に囲まれた小諸という土地柄もあり、教養や品格を重んじるような家庭環境の中で育った可能性が高く、そうした価値観が樫山家の中にも息づいていたのではないでしょうか。
印象的なのは、樫山文枝さんが女優を志したときの、母親の反応です。
当初、父である樫山欽四郎さんは厳格な学者としての立場から進路に反対していたものの、母親はまったく違う角度から娘の選択を受け入れました。
そのときにかけた言葉が、「あなたが生涯をかけてもいいと思える仕事を見つけられたことが、とてもうれしいわ」というもの。
この一言には、娘の人生を信じ、応援したいという深い愛情と理解が込められており、家庭の中に精神的な支えとなる存在がいたことが伝わってきます。
母親の寛容さと温かさは、のちの樫山文枝さんの演技にも影響を与えているかもしれません。
舞台やテレビの中で見せる、繊細で思慮深い人物像には、育ての親から自然と受け継がれた優しさや感性が映し出されているように感じられます。
家庭の中での母親の存在は、表には出にくいものの、その影響は人生を通して静かに続いていくものです。
表舞台の裏にあった、見守るような愛情が、樫山文枝さんという人物の土台を支えていたことは想像に難くありません。
樫山文枝の兄弟や姉妹
樫山文枝さんには、姉・兄・妹がいて、4人きょうだいの家庭で育っています。
きょうだいの皆さんは一般の方のため、名前や顔写真、職業などの詳しい情報は公表されていません。
メディアに登場したこともほとんどなく、静かに生活されているようです。
ただし、幼少期からきょうだい仲は非常に良かったと伝えられています。
自然に囲まれた吉祥寺の実家で、のびのびと育った日々の中で、助け合いながら過ごしてきた関係は、今も良好に続いているのではないでしょうか。
特に印象的なのは、晩年を迎えた現在の暮らしに関するエピソードです。
近年では、姪の家族が隣に住んでいることが報じられており、親族とのつながりを大切にした穏やかな生活が続いている様子がうかがえます。
姪の娘の存在が「癒しになっている」と話していたことからも、親族間の絆の深さが感じられます。
また、父・欽四郎さんや伯父・純三さんといった教育・実業界の重鎮に囲まれて育った家庭環境の中で、きょうだい一人ひとりがしっかりとした価値観を持って成長されたことが想像されます。
華やかな芸能界の道を選んだ樫山文枝さんと、表に出ないながらもそれぞれの人生を歩んだきょうだいの関係は、互いを尊重し支え合う良い距離感で続いているのかもしれません。
芸能人という華やかな世界にあっても、家族やきょうだいとのつながりを大切にする姿勢には、静かな品格と人としての温かみがにじみ出ています。
日々の暮らしの中にある、家族との穏やかな絆が、樫山文枝さんという人物の深みをより一層引き立てているようです。
まとめ
今回は、女優・樫山文枝さんのルーツに迫り、家族構成や育った環境について詳しくご紹介しました。
父親は、早稲田大学で哲学を教えた著名な大学教授・樫山欽四郎さん。
学術の世界で数々の役職を歴任し、日本の哲学教育に貢献してきた人物です。
そして伯父は、大手アパレル企業「オンワード樫山」の創業者・樫山純三さん。経済界やスポーツ界でも功績を残し、実業の第一線で活躍していました。
こうした知的かつ文化的な家庭環境で育ったことが、樫山文枝さんの落ち着いた品格や表現力の豊かさに繋がっているのかもしれません。
実家は現在の東京都武蔵野市吉祥寺で、幼少期は自然に囲まれた穏やかな環境でのびのびと育ちました。
母親は表に出ることのない一般の方ですが、女優という道を心から応援し、あたたかく背中を押した存在。
姉・兄・妹とも仲が良く、今も親族とのつながりを大切にした暮らしを続けています。
華やかな舞台の裏には、家族との深い絆と知性あふれる背景がありました。
樫山文枝さんという人物の魅力は、演技力だけでなく、家族に育まれた人間味と温かさにもあるのではないでしょうか。
これからも変わらぬ品と深みを持ったその姿に、注目していきたいと思います。

